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| 古神道の聖地 |
小学校卒業目前に両親が離婚し、母親に連れられて四国の大田舎に引きずり込まれた私は、不承不承、その地での生活を始めました。 小学校のレベルは低く、ほとんど鼻歌交じりで授業についていくことができたのが救いというべきでしょうか。 都会からきたのがよほど珍しかったのか、一時期はギャラリーまでいました。(~_~;) 母はというと、弟がまだ幼かったため、働きに出ることもできず、家にいる毎日でした。 そのうちに祖父の持つ貸家、二軒長屋だったのですが、空いていた一方に入ることになり、祖父と母とで手入れをはじめました。 特に祖父は、私たちを不憫に思ったのか、大変に力を入れてくれ、年金暮らしで収入も限られた中で、独力で汲み取り式トイレを水洗式に改造してくれたりしました。 その当時で築50年前後と、とんでもないオンボロ家ではありましたが、家族だけで暮らせることの幸福感をしみじみと感じました。 祖母がきつい人で、あれやこれやと掣肘されていたのをやはり窮屈に思っていたのだろうと思います。 特に、幼い弟に対する嫌悪は異常なほどで、相当の長期間、私は祖母から弟の悪口を聞かされました。 その祖母も、今では母を唯一の頼りとしており、さびしいさびしいといいながら日に何度も電話をかけてくる始末。 母はまあ、親子ゆえか、ぶりぶり言いながらも世話をしてはいますが、私と弟は一切無関心。 といっても私は母から当てにされてるので、どうしても手伝わされはしますが。 祖母には、孫連中はほとんど寄り付こうとしません。 たまーに、申し訳に顔を出す程度。 因果は巡るというか、あまり嫌らしいことを人にするものではないということでしょうか。 母は、祖父母が古神道を信仰しているのに引き込まれたらしく、直に古神道を信仰し始めました。 家の2ヶ所に神棚が祭られ、祝詞を上げるようになりました。 それを始めてから後に、謎の轟音が起こったということもありました。 母の古神道への傾倒は続き、私が小学校を卒業した春休み、家族全員でその教団の本拠へ行くことになりました。 古神道ですが、軍国主義と結びつき、戦争を礼賛し、多くの日本人を死地に送りこんだ国家神道とは根本的に異なるものです。 国のために死んだ者全てが神になるというような乱暴かつ野蛮な教義はありません。 天皇を神の子孫とする考え方は変わりませんが、その考え方はアニミズムなどの原始宗教に近く、修法は独自のものがあります。 多くの古神道教団は、大正から昭和にかけての時代に生まれました。 大霊能者、出口王仁三郎が出たことで有名な大本教を嚆矢とし、天理教、金光教などもこれらの範疇に含まれるようです。 また、吉田神道など古来の神道や、一連の神道ルネッサンスの嚆矢となった大本教の影響も受けていることが多いようです。 多くの教団が日本の霊的国防を目的とし、戦前にはさまざまな活動を行っていました。 祖父母が入信していたのは天行居という団体で、これも戦前に設立され、教祖は大本教から分かれ、さまざまな神道神学に触れながら神智を得、山口県田布施町の石城山に天行居を開きました。 この天行居という団体、霊的国防論の中心的団体で、戦前には、日本各地で魂鎮(みたましずめ)の儀式を行い、霊物を埋めるということを行っていたようです。 後に、祖母の兄弟が戦前からの信者であったことがわかり、この儀式にも参加していたものと思い、感慨を深くしました。 古神道に対する私のスタンスを説明すると、私個人は、竹内文書を知ったこともあり、排他的でない、宇宙的なものを感じさせる古神道は素直に頭に入ります。 だけど、731部隊や神風特攻隊に代表される、狂人の支配した日本軍国主義を宗教面から主導した国家神道に対しては憤りしか感じません。 明治以降、人為的に作られた国家神道は原始キリスト教に対する現ローマカトリックと同じく、草創期の志から離れ、闇の力が換骨奪胎を行ったものと認識しています。 戦後、天皇の権威が低下し、政治学用語のガバナビリティでない、本質的な意味での日本の民度が下がったのを見れば、国家神道を推進した力が何を意図したかが明らかになるかと思います。 明治神宮にはいつの日か参拝する予定ではいますが、靖国神社には、未来永劫行くつもりはありません。 以前に特攻隊の生き残りの人から話を聞いたこともあり、犠牲となった人たちには深い哀悼の意を捧げるのにためらうものではありませんが、自らの狂信のために、多くの無辜の民を死地に追いやった者達が祭られているということには深い憤りを禁じ得ません。 どこをどう糊塗すれば、自らの責任に対して無関心でいられるのか。 私には、祭祀の正当化を強弁する遺族たちともども、深い軽蔑を覚えます。 狂信者たちの犠牲になった無辜の民衆と、日本を、物質的にも精神的にも破壊した者たちを一緒にするというのは、死者と、国と、そしてこの星に対するこの上ない冒涜です。 天行居の本拠を訪ねるため実家を出発した我々家族4人は、5時間ほどかけて、夕刻近く、田布施に到着しました。 まずは事務所に通され、担当者らしき、浄衣を着た初老の男性から説明を受けました。 その人は私にもなにか話しかけてきましたが、平井和正の小説を愛読し、霊能者に対して警戒していた私は心を読み取られるのを恐れ、必要最低限の当たり障りのない応答に終始しました。 しばしの歓談の後、部屋に通され、しばらくの時を経て、食事となりました。 この食事がすばらしくおいしかったのは明確に覚えています。 メニューはごく普通の田舎料理というか、定食屋のようなメニューだったのですが、ご飯がすばらしくおいしく、本当にご飯だけでも食べられそうなほどでした。 石城山の湧き水を使っていたのだと思いますが、普通の涌き水でこれほどまでにおいしくなるものかと、今でも疑問に思うほどのおいしさでした。 恐らくは霊地、石城山ゆえ、何かしらの霊的、というか神的な作用によるものだとは思いますが。 その夜、私の体に異変が起こりました。 寝ようとしたとき、突然に鼻血が大量に出、同時に熱を出したのです。 37度5分程度だったので、大したことはなく、2泊3日の行程をこなすのも問題ないと再三主張したのですが、母親がえらく心配し、結局、翌日に帰ることになりました。 母は単純に上せて鼻血を出したのだと考えていたようですが、私は違う考えを持っていました。 事務局の人間に対して霊的な防御を図ったりしたことと、当時の私の意識の低さ(今もですが・・・)から、霊地に留まることを神が許さなかったのだと考えていました。 もちろん、このようなことを話しても、誰も相手にするとは思えないので黙っていましたが。 予定を切り上げて帰る私達を哀れに思ってか、祖父が熱心に信仰していた縁もあり、翌朝、通常は行くことのできない山上の神社を特別に訪問することが許されました。 山道をかなり歩いたあとにたどり着いた神社は、造りはともかく、なんともいえない清浄さがあったのが、子供心にもわかりました。 応対してくれた宮司さんもまた、清潔感溢れた初老の方で、脂ぎった人が多い印象だった山下の事務所と違い、ここが天行居の本質なのだろうと感じました。 しばらく歓談した後、これも特別に本尊の鏡を拝見させてもらいました。 白い布に覆われた鏡が、拝殿正面に鎮座していました。 宮司さんが立ち上がり、その白い布を外します。 と、その瞬間、強烈な光が目を射ました。 当日は曇天で、反射光の可能性はなく、明らかにその鏡からの発光と思われました。 霊的な光だったのでしょうが、いまだにその光のイメージは明確に残っています。 そのことを家族に話したかどうか、今では記憶は定かに持っていません。 多分話したように思うのですが、母の反応は生返事のようだったのではなかったかと思います。 私だけがその強烈な霊光を見たように思います。 当時から霊的なことに関心のあった私に対して、神様がひとつ、見せてくれたのだと思います。 しかしながら、前夜は鼻血を出し、翌朝は霊光を見る。 今から思い出しても訳のわからない聖地訪問ではあったと思います。 強力な霊物がある古神道の聖地。 天行居の教祖は、石城山を霊地として、そこに本拠を定めたとされていますが、あの鏡の放った霊光を考えれば、それも容易に頷けます。 そして山上の清浄さ。 非常に居心地の良い空間でした。 後に訪れた伊勢神宮の雰囲気も、ここによく似た印象がありました。 天行居も天照大皇神を最高神として信仰しているためなのだろうと思います。 このときの霊光は、今にして思い返すと、神霊と接した、恐らく初めての体験でした。 (18.01.28) (最終更新 19.08.31) |
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