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| 別 れ | |||
私にとって、33歳から34歳にかけての2年間は、心のあり方が大きく変わった時期でした。 33歳になった年の秋、自分の無策を隠したかった一人の男の画策から、それまで勤めていた会社を追われました。 同僚が開いてくれた送別会の席で、一人の同僚、仮にA氏としますが、彼とは在職中の3年間、毎日のように飲み歩いていたのですが、その彼と話が大いに盛り上がり、その席上で彼と起業しようかという話になり、退職後はその準備に明け暮れるようになりました。 そしてその冬。 ある日の夜、母親から父が危篤だという連絡を受けました。 父は離婚後、仕事を何度か変えた挙句、実家に戻っていましたが、その後、肝臓を悪くし、入退院を繰り返していたようです。 その夜は移動手段がなく、翌朝、大急ぎで病院に駆けつけました。 父は、驚くほど痩せ、肝硬変の最末期であるにもかかわらず、不思議なことに若いころの顔立ちに戻っていました。 一言、「頑張れよ。」と声をかけてくれた後、昏睡状態に入り、その後1日あまり唸り続けた挙句、なにかがふっと抜けるように死にました。 死に顔は、驚いたことに肝硬変によるむくみなどなく、若いころのきれいな顔立ちに戻っていました。 父の死の直後、親戚が駆けつけてきました。 「こんな早ように死んだらあかんやないか。」と叫ぶ、その親戚の言葉に耐えられず、私は外に出、母親に電話して父の死を告げました。 そこまでが限界でした。 トイレに駆け込むと、声を上げて泣いたことを覚えています。 その日、何回目かの号泣でした。 その夜、父の兄弟たちの配慮で父と一緒に寝ることができた私は、父の死に顔を見ては泣くことを深夜まで繰り返し、翌朝、付き添いの交代にきた父の兄弟に、泣き腫らした顔を見られてしまいました。 離婚して縁が切れたにもかかわらず、父の兄弟は暖かく私たち兄弟を受け入れてくれ、父の兄弟たちの手により、ささやかながらも葬式を行うことができました。 酒好きだった父のため、唇を湿す末期の水は、水の代わりに酒を使い、末期の酒にしました。 その後も起業に向けて準備を進め、また、人にだまされ、50万ほどむしられたりしてるうちに、起業のパートナー、A氏にちょっとした事件が起こりました。 彼はまだ在職していたのですが、その彼から私に、出張先で骨折したという連絡が入りました。 車を運転できないということで、私が出張先まで出向き、彼の車を運転して彼を連れて帰り、A氏はそのまま入院しました。 当初は、骨折だったので、見舞いに行っても冗談を言いながら過ごしていたのですが、2ヶ月後、退院間近になって、A氏に黄疸が出て、容態が一気に悪くなりました。 病院にかけつけてみると、顔は黄疸の名の通り、異様に黄色く、傍目にも深刻そうではありましたが、彼自身は冗談を飛ばすなど、明るく振舞っていました。 病院を移り、一時は生死の境をさまよい、ICUにも入れられたA氏は、その後持ち直しましたが、黄疸の原因を探るうち、肝ガンが発見されました。 同時に転移も見つかり、どの程度まで進行しているのかもはっきりしないまま、緊急手術ということになりました。 A氏のショックは大きなものだったと思いますが、彼の明るさを失わない態度に周囲のものは励まされ、大丈夫ではないかという雰囲気が漂っていました。 私は冗談交じりに、「もし、手遅れだったとき、末期の酒は何にする?」と、酒好きな彼を和ませようと、ひどい冗談を言った記憶があります。 まさか本当に考えなければならない羽目になるとも知らず。 彼が声を立てて笑ってくれたのが救いでした。 手術の日。 前日に見舞いに行った際、手術は8時間ほどかかり、夕方に終了予定であり、面会できるのは夜遅くになるだろうという説明を受けていた私は、その言葉を信じ、いつものように自宅にいました。 夕刻、といっても4時前だったか、電話が鳴りました。 彼の妹からでした。 手術の結果を説明するでもなく、病院に来てほしいとだけいわれ、最悪の結果を予期した私は、半ば絶望感に打ちのめされながら、急いで病院へと向かいました。 病院には、A氏の家族、親族が集まっていました。 彼の妹が、手術は1時間で終わったこと、開けてみたところ、手の施しようがなく、単に開けて閉めただけだったこと、余命3ヶ月と宣告されたこと、手術後、すぐに起きてしまっては、手術の失敗を悟られてしまうので、今も麻酔薬を投薬して眠らせていることを聞きました。 そして本題です。 手術の結果を正直に知らせるべきか、それとも成功したとうそを言って、宣告をとりあえず引き伸ばすか、いずれを決めるにしても、ビジネスパートナーの私の協力が必要だということで家族会議に私が呼ばれたのです。 私は、彼の強靭な意思力、明晰な頭脳をよく知っていましたので、すぐにばれてしまううそをつくよりは、正直に結果を説明し、闘病をしたほうがいいと思い、そのとおり主張しました。 A氏の妹も同意見でした。 しかし、A氏の母親がかわいそうだからという理由で手術が成功したことにすることを強硬に主張し、結局、手術は成功したことにすることになってしまいました。 私は、その時点で縁を切ってもよかったのでしょうが、彼の親族の懇願により、そのうそに協力することになりました。 それからの日々は、つらくもあり、楽しくもあり、私にとっても、深く、そして重い日々でした。 私は、彼の死を見届ける決心をしました。 父の死に際し、なにもできなかった、してあげられなかった自分への悔いがあったことは否定できません。 幸い、預金が少々あり、数ヶ月なら生活できました。 A氏の入院先の病院から近いこともあり、週に何度も見舞いに行きました。 あるときは、夜間、A氏から電話が入り、時間外にもかかわらず見舞いに行き、ひとしきりバカ話をして帰ったこともありました。 A氏のわき腹からはチューブが突き出していました。 胆管にガンができており、黄疸を防ぐため、胆汁を流すために必要なものでした。 彼は、手術が成功したにもかかわらず、なぜチューブが依然としてついているのか疑問だったようで、何度か手術の出来についても聞かれ、そのたびに苦しい言い訳をしておりました。 また、高額療養費給付申請などは、精神的に不安定だった彼の妻に代わって私が行うなど、やれる範囲でのサポートはしました。 それが当然の務めと信じていました。 あるとき、彼の車椅子を押し、二人で病院の屋上に上りました。 秋の夜で、風が涼しく、辺りには人もいません。 遥かに、二人で飲み歩いた繁華街のネオンサインが輝きます。 飲みに出ると、3時ぐらいまでハシゴしていた街の灯が。 「早く治ってまた、飲み歩きにいかないと行けないな。」と、彼が灯りを眺めながら言います。 「そうだよ、そのためにも早く治さないと。」と、私は、内心の絶望を押し隠し、それでも、努めて明るい声音で返し、そのまま、二人で飽きもせず、遠い街の灯を眺めていました。 遠くから眺める街の灯がこんなに美しいものだということに感動しながら。 長い、それでいてゆったりとした時間を過ごした後、病室に戻ると、A氏の母親が彼の足先に触れるなり、冷たくなっているのに気付きました。 もはや寒さの感覚を覚えないほどに病状が悪くなっていたようです。 あるとき、会社の元同僚が見舞いに訪ねて来たことがありました。 彼は、A氏の姿を見て絶句しました。 恰幅のよかった彼の体は、20kg以上も肉が落ち、別人のように見えたようです。 見舞いに行った後、病院を一緒に出た私に対し、彼は泣きそうな声音で私に語りました。 手術の日から、余命宣告された3ヶ月が過ぎ、4ヶ月の半ばを過ぎようとしたころ、次第次第に病み衰えてくるA氏の体の異変をごまかしきれなくなり、ついに、主治医の口から告知がなされました。 私は同席しませんでしたが、彼の妹から話を聞きました。 A氏は、告知を受けても動揺を見せなかったそうですが、その後、夜の誰もいないロビーで独り涙を流していたそうです。 それからは、彼に対して苦しいうそをつく必要がなくなりはしましたが、残された日をどう過ごすかという、とても重い命題が突き付けられました。 A氏は、それでも、残り少ない日々を懸命に生きようとしていました。 同じ病棟にいた末期患者がサメの軟骨で病状が好転したことを知り、それを入手したり、家族に対して努めて明るく振舞ったり。 でも時間は残酷です。 病状はさらに悪化し、告知から2週間ほどして、A氏は自宅近くの病院への転院を決めました。 やはり、最後は家族との時間を少しでも取りたいという思いが強かったのでしょう。 それまで、彼の家族は、奥さんはA氏の母と交代で看病に当たっていましたが、溺愛していた一人娘はなかなか来られず、A氏はさびしい思いをしていたようです。 転院してから後は、私のほうは、50kmほど離れてしまったこともあり、病状が悪化したこともあって、週に一度くらいしか行けませんでした。 そしてそんなある夜、夢を見ました。 夢の中にA氏が出てきました。 私がどうしたのか聞くと、さびしそうに微笑みながら、「死ぬことになったんだ。」と答え、それからしばらくして目覚めました。 明け方のことでした。 胸騒ぎを感じ、その日の昼まで待って電話をかけると、A氏の妻が出て、容態は変わりないことを告げます。 私が夢を見たことは話さずに、見舞いに行きたい旨を告げると、A氏と妻とのやり取りの後、A氏が出て、「もうじきに死ぬんだからかまわなくてもいい、見舞いなど来なくてもいい。」と投げやりに言われました。 私は、悲しさと怒りがないまぜになった気持ちで、それでも二言三言言葉を交わした後、電話を切りました。 後で、A氏の妹から電話がありました。 どうも、死期が近づくにつれ、周囲に当たるなど、精神状態があまりよくないとのことです。 無理に見舞いに行って彼を刺激するのもよくないということになり、見舞いに行くことは取りやめにすることになりました。 夢を見てから一週間後。 明け方近くまで眠れなかった私は、早朝、熟睡を一本の電話で破られました。 A氏の妹からでした。 すすり泣きながら、彼が逝ったことを告げました。 私は、冷静に亡骸の安置場所を聞き、準備もあるだろうからと、行くべき時間を約して電話を切りました。 不思議に冷静だったことを覚えています。 斎場に着くと、A氏はスーツに着替えて横たわっていました。 半眼半口という、わずかに目を開き、わずかに口を開いた状態でした。 ある本で、それは仏像の表情に通じ、成仏した死者はそのような表情になると読んだ記憶がありました。 それが、彼の人生に対する満足感をあらわしているように思え、私は思わず、彼に微笑みかけました。 悲しさよりも、感謝の気持ちがあったように思います。 その日の夕刻から通夜を行うということなので、私はいったん家に帰り、再度出かけました。 彼と冗談混じりに交わした末期の酒を酌み交わすことが出来ていないことに気付き、考えた末に、シーバスリーガルを一壜、持って行きました。 斎場に着き、酒の入った化粧箱を祭壇の近くに持っていくと、近づいてきたA氏の妹が怪訝な顔を見せます。 「末期の酒を酌み交わすことが出来なかったので、せめてもの供養と思い、持ってきました。」と私がいうと、彼女は顔を覆い、泣きました。 シーバスは棺の上に置かれました。 その後張られた小宴の席でも、やはり、棺の上にシーバスが鎮座しました。 親族みんなが彼の酒好きを知っており、せめてもの供養という思いだったようです。 席上、A氏の妹が、見舞いに行く行かないで揉めたとき、無理にでも来てもらえばよかったと言ったので、私は、「彼にはもう、挨拶をしてもらっていましたから。」と答え、死の1週間前に見た夢のことを話しました。 ただ、臨終に立ち会ってもらおうとしたが、早朝だったので遠慮した旨のことを言われたときには、私も少し悔いに似た思いが残りました。 そのうちに親族の一人が、「祭るだけではもったいない。」といいながらシーバスの栓を開け、飲み出しました。 席にいた男性みんなが、供養と思い、シーバスを飲みました。 翌日の葬儀。 末期の水には、水に代わってシーバスが当然のように使われました。 ダンディで、飲みに行った先で女性によくもてたA氏によく似合った末期の酒でした。 私にとって、父親の死と、それに続くA氏の死は、いずれも大きな経験となりました。 特にA氏とは、通算4年ほど付き合い、病状が衰えていくのを座視して眺めるしかないという、深い悔いを残し、マクロビオティックに出会う契機になりました。 それと、死の1週間前に見た夢です。 義理堅いA氏が、ベッドから離れられないために、生霊として夢の中に出てきてくれて、挨拶をしてくれたものと私は信じています。 (17.12.10) |
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