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「自由・博愛・平等」について

「自由・博愛・平等」という言葉がある。

世界を裏面から支配しているという有名な団体の掲げる理念であり、フランス革命のスローガンとなった言葉であり、日本国憲法の思想的土台ともなっている。

闇の集団の理念を書き記したという書物によれば、人類を堕落させ、相克させるためのトラップ(罠)として、意図的にこの言葉を掲げているという。

つまり、彼らの考えによれば、これらの言葉は相反するものであり、自由を望めば博愛と平等は制限され、博愛を望めば、他の2者は制限される。

平等を望んでも然りである。

かくして、耳に快い、崇高な理念を表したメッセージであるはずの「自由・博愛・平等」という言葉は、遅効性の毒のように人の心を侵し、混乱させ、ついには人を堕落させるというのである。


実際、この言葉が最初に使われたとされるフランス革命を経験したフランスはその後政治的に不安定な状態をたびたび経験している。

過度な権利意識を叫ぶ勢力や先鋭的で空虚なことを進歩的なことと自他共に誤解した「文化人」たちによって革命の危機に晒されたことさえあった。

日本においては、現状を見ればあえて言及する必要はないだろう。

恐ろしく低下した民度を見れば。



しかし、これは彼らや、それに思想や意識を操られている連中のような低次元の意識の場合に限ってのことである。

人がどうなろうが自分だけがよければ、あるいは人を支配して君臨しようというレベルの意識においてはこれらの言葉は相克し相反するものであろう。

しかし、高次元においてはこれが高いレベルで調和し、相立つことができる。

逆に言えば、この一見相克するように見える3つの言葉が互いに調和するのが高次元の特徴であるといえる。



「自由」という言葉について考えると、高次の意味での自由、個性の発露の自由がなかりせば、神は人という存在をこのように作ることはなかったということがまず思い浮かばれる。

高いレベルで個性が発現し、さまざまな意味での環境と調和しながら生命存在を謳歌し、さまざまな手段で表現する自由は、人間に与えられた最大の能力であり、これがあるために人を人たらしめていると思われる。

これがなければ、別に人間という形を取らなくても、生息する生物を動物のレベルまでにしたほうが、環境負荷を考えれば星にとっては楽かもしれない。

逆に考えると、生命存在を謳歌し、高いレベルで表現できる生命形態は人間以外にありえないともいえる。

神は自らに似せて人を作ったとされる。

その信に応えられるのは、どのような意識であろうか。

高いレベルに達した霊的存在は、個性を持ちながらそれぞれに美しさを持っているとされ、高いレベルに達した星の住人たちも、個性を十分に持ちながらも美しさを持っているとされる。

人間という霊的存在はそれぞれに異なり、その異なる個性が集まって一つのコミュニティを形成し、それを高めていく。

その中で、より良いものを求め、そこに個性を発現する自由というものは、確かに存在するといえる。

低次元での、自分たちが好き勝手をする「自由」とは、根本的に考え方が異なるということになる。


もう一つの自由は、高いレベルにも低いレベルにもいける「自由」である。

人間という存在は、その生を通して、高いレベルにも上がれ、低いレベルに堕ちることもできる「自由」がある。

アップダウンを繰り返すことによってさまざまな経験を得、意識体としての重厚さを獲得していく「自由」というものも、確かに存在する。

これもまた人間が生来持っている「自由」であると、確かにいうことはできよう。



「博愛」は、比較的意味がねじ曲げられていないように思われる。

あまねく生命存在、そして環境に対する無条件の愛というものが、生命存在が生きるための大前提といえないだろうか。

自分が生きることで他のものが生き、他のものが生きることによって自分が生きる。

他の生命存在が光り輝くことにより自分も輝き、自分が輝くことによって他の生命存在も輝く。

我がことは他のことであり、他のことは我がことである。

これを簡潔に表現したのが「博愛」である。

神は生命存在に対して無償の愛を注ぎ、高次元存在は低い次元のものにも救いの手を差し伸べる。

現実世界において「博愛」を具現するのは太陽である。

太陽の光と熱により、すべての生命存在は生かされている。

太陽は見返りを要求はしない。

だが、太陽が光り輝くことにより、惑星やそこにある生命存在が輝き、それらがあることによって太陽はさらに光り輝く。

惑星の存在しない太陽に、真の美しさがあるかと考えれば、そして、太陽が存在し続けられるかと考えれば、答えは出てくるように思う。

翻って今の地球における「博愛」を考えれば、これも少々はねじ曲げられているように感じる。

暴利を貪る企業が美しくない手段で得た利益の一部を還元したところで、それが美しいことだろうか。

菜食の20倍も効率が悪い、そして罪のない動物を虐殺してまで行う肉食を行い、皮を取るためだけに殺される動物の犠牲によって作られる革製品を身にまといながら、アフリカの難民に援助するのが美しいことだろうか。

こう考えると、一部の人間たちが喧伝する「博愛」の意識の低さに気づくのではなかろうか。



「平等」は、機会の平等、そして神の前での平等ということはいえようかと思う。


機会の平等とは、魂を昇華させる機会、堕落させる機会の平等ということもできるし、経験する機会の平等ということもできる。

人によって生まれ持ってきた、あるいは周囲を囲繞する条件は異なるが、経験する機会は平等であり、魂を高みに置く、あるいは低きに置く機会は平等であるといえる。

神の前での平等は、神にとって見れば、すべての生命存在は等しく愛すべきそんざいであると考えるとよいだろうか。

それゆえに、さまざまな経験をする機会を与えてくれ、許容されていると考えると。

決して低次元で考えるような平等ではなく、悪平等のようなものでもありえないと思う。

すべての条件を同じくするようなニュアンスでの平等を追求していくと、悪平等のような状態に至る。

まったく進歩もなく、相互に疑心を持ち監視しあうような状態は、望ましかるべき状態であろうかと思えば、この言葉の毒もわかるものではある。

結局、言葉というものは、使うもの、受け取るもののの意識によって大きく意味を違えることがあるということがわかる。



低い意識のものたちが悪意を持って広めたともいわれる「自由・博愛・平等」は、「気づく」ことができれば、その意味が大きく変わっていく言葉でもある。

貨幣経済によって技術が大きく進歩し、また情報の伝播速度と密度が飛躍的に増し、より多くの情報に接することによって結局は目覚めを促されるように、この言葉も、高次意識に目覚めるために、あえて低次意識の意図によって伝播されたようにも感じる。



この言葉は、来るべき新しい時代に向けて、広く敷衍された言葉のように感じる。

日本においても、下がりきったモラルを立て直そうというムーブメントや意識が見える。

フランスをはじめとする他国においても近いうちにそのような動きが誰の目にも見えるようになるだろう。

低い意識のものたちが埋毒のように仕組んだものは、実は高次のものたちが仕組んだものでもあったと考えると、なんとなくおかしくなってくる。


こういうことを踏まえて「悪のお役目ご苦労である」という日月神示の言葉を顧みると、深い意味を感じる。


(20.07.07)
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