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神社への参拝について

他の項でも書いてはいるのですが、あえて別項を立てて紹介しようかと思います。
私がこのようなことを書くのがいいかどうかはわかりません。
でも、ネットを縦覧すると、自分勝手な目的で神社を参拝する人が多いのが目に付きます。
アセンションに向かおうというこの時代、そのような人たちにはいずれ報いが来るでしょうが、少しでも助けになるように、学んだところを書こうかと思います。
ここに紹介した方法は、ワタクシの流儀ですので、一般性はないかもしれないことをあらかじめ付記しておきます。

○神社とはどういうところか。

「神様と向き合うところ」というのが私の考える答えです。
多くの神社はエネルギースポットに立地しているといわれます。
その特別な土地で神様と向き合う。
それが神社に参拝する意味ではないかと私は考えています。
神様と向き合い、自分を見つめる。
神社への参拝は、本来、そのような意味を持っていたのではなかったかと思うのです。
もうひとつはエネルギーの回復。
エネルギースポットにあるということはつまり、神社に参拝するだけでも、エネルギーを受け取れるということでもあります。
傷んだ心身の慰藉やエネルギーの充実という意味も神社への参拝に求めてもいいかもしれません。

多くの人の崇敬を集めている神社は、それだけパワーも強くなります。
また、別項で紹介しているように、特別な地に建てられている神社もあり、そういった神社のエネルギーは大きなものです。
しかし、観光目的は別にして、霊的な意図を持ってそういった神社に行くためには、それなりの資格が要ると思います。
大きなエネルギーを受けるには、それだけの器が要るということになります。
お湯を受けるのにガラスコップを用意する人はいないでしょう。
大きなエネルギーを受けるには、それなりの準備が要るということです。
高いレベルの神様のエネルギーを受けるには、それだけ身を清くしなければなりません。
この場合の身とは、肉体はもちろんですが、精神性も指しています。
卑しい心根でエネルギーをもらうことを目的にこのような神社に行けば、報いを受けることになるでしょう。
それも神様がやるのではなく、自分が自分に報いを与えるのです。
あたかもペルセウスの盾に映る自分の姿を見たメデューサのように、自分の振る舞い、自分の悪意、悪想念の報いが自分の身に降りかかることになります。
大きな光により、闇は押し篭められるとでもいいましょうか。
霊的に考えれば、カルマを落とすことになるのでそれもいいことでしょうが、一気にやられては、生身の人間はたまらないでしょう。
観光目的の場合は、この限りではないと思います。
動物たちは自由に神社の神域に入ることができます。
観光目的の場合は、言ってみれば「動物枠」で行ったようなもので、特にどうということもないでしょうし、何の御利益もないということになるかと思います。

だから、神社に行くのであれば、やはり霊的な意味も意識して行きたいですし、行くのなら、身を清くして神様のもとに行くぐらいの覚悟で行ってほしいと思います。


○神社に行く意味。

私の場合は、こんな意味を見出しています。
・ご祭神とされている神様に会いに行くこと。
・神社間のネットワークを作り、日本を光の地として再生させること。
・守護神に挨拶
神社間のネットワーク作りは、後述する高坂和導氏の著書にあったことに感銘し、それを実行しています。
光のネットワークを作り、日本を霊的に再生する。
それに参加し、少しでも助力できるとしたら、これほどエキサイティングなことはないと思います。
私も微力ながらもそれに参加しているわけです。
私の守護神が素盞嗚尊であることを知った後は、素盞嗚尊様ゆかりの神社を訪れることにも熱中していました。
その甲斐あってか(?)、ある霊覚者と会ったときに、私の背後に素盞嗚尊様を見ていただいたこともありました。(→リンク
今はどうかわかりませんけど・・・。


○参拝のやり方。

私の参拝のやり方は、高坂和導氏の著書で紹介されたやり方を基本的には踏襲しています。
ですので、これらの著書を持っている方にはおなじみかと思います。
・・・のはずだったのですが、最近入手した同書には、記述がありません。
別の著書だったのか、それとも著者が違うのか。
いずれ出展を確認したいと思います。
とまれ、参拝のやり方については書いておいたほうがいいかと思うので、参考著書不詳のまま、以下、思いつくままに書いていきます。

・神社に行く前は肉食忌避。
 肉食をやることによって肉体も精神も汚れます。(マクロビオティックのページへ
 なので、最低でも前日からは肉食を避けました。
 場合によっては魚も食べないようにしていました。
 このやり方は上の著書にあったかどうかわかりませんが、マクロビオティックをやるようになった私にとってはごく自然なことでした。
 神様が殺生をした人間を近づけるでしょうか。
 それを考えれば、肉食の可否は自明です。
 肉食は殺生ではないと強弁する輩もいるでしょうが、肉を取るために何をしているか。
 肉食によって間接的に殺生を犯しているのは明らかだと思います。
 飲酒もできるだけ避けていました。
 人の倫理観を後退させる効果のあるアルコールの摂取もあまりよくはないと感じています。
 もちろん、リラクゼーションの効果もあるので、一概に飲酒は悪とは決め付けられません。
 酩酊しない程度の量であれば、目くじら立てる必要はないかとも思います。
 私も、フラフラ病にやられて以後は、列車の車中でもフラフラや吐き気が来ることがあったので、それを和らげるために軽く飲むようにしていましたが、神社に入る頃には酔いが醒めるように調節していました。
・鳥居で一礼
 入るときも出るときも一礼をします。
 神社というのは、神様の家という意味合いもあります。
 なので、一礼して出入りするのは当たり前だということです。
・参道は端を通る。
 真ん中は神様の通り道なので、そこを避けて端を通るようにということです。
 これは私も最近まで知りませんでした。
 なので自戒をこめて書きます。
・手水舎(ちょうずや)でのお作法
 手水舎では、柄杓に水を受けて左手、右手、口の順に洗います。
 1.右手で柄杓を持ち、左手に水をかけて左手を洗います。
 2.左手に柄杓を持ち替え、右手に水をかけて右手を洗います。
 3.右手に再度柄杓を持ち替え、汲んだ水を左手に受け、口をゆすぎます。
   このとき、柄杓の水を直接飲んではいけません。
 これを知らない人があまりにも多いので、太字にしておきます。
 神社に参拝して一番腹が立つのが、これを知らない人が多いこと。
 特に、柄杓から直接口飲みするという無作法がよく目に付きます。
 しかも、高齢者が平気でこんな無作法をやってのける。
 だから日本は・・・。
 なんていっても始まらないのですけど。
 この後、再度左手を洗い、さらに水を入れた柄杓を立てて柄杓の柄を洗うという作法もあるようですが、異論もあるようなので、私はやりません。
 手水舎の水が汚れていたり、なかったりした場合はどうするか。
 大きな神社では、水を常に流していますが、小さなところではそれがなかったり、あるいは水の気配もなかったりします。
 そういうところでは、手だけを洗い、口をゆすぐのを省略したり、行ったけど水がなかったのでやりませんでした、と心の中で断りを入れました。
 もちろん、神様にです。
・ご祭神の確認
 本殿の近く、鳥居の横、神社境内のどこかに神社の由緒書きがあるところが大半です。
 私は必ず確認していました。
 参拝するのにご祭神様の名前を知らないということも恥ずかしいことですから。
 わからないときは「この神社のご祭神様」という表現で許してもらいますけど・・・。
・お賽銭
 別の項でも書いていますが、お賽銭は別に願い事をかなえてもらうための祈願料ではありません。
 もし、そう考えるなら、10円とか1円とかでは到底足りないはずですが、そういう輩に限ってお賽銭をケチるものです。
 お賽銭は、その神社の維持に協力するという意味合いが強いと思います。
 年月が過ぎれば、多くの人が参拝すれば、神社の施設は傷んでいきます。
 その維持に協力するために自分のできる範囲でお賽銭を入れるというのが、お賽銭の正しい捉え方だと思います。
 私は、遠方の、あまり来られない神社は千円単位で入れるようにしていました。
 といっても千円とか二千円とかですけど。
 近所の神社は頻繁に行くとなるとけっこう金銭的にもキツイので、10円か100円を入れるようにしていました。
 貧乏なときはもちろん、お賽銭ゼロというときもあります。
・礼拝
 鈴があるときは鈴を鳴らし、ないときはそのまま礼拝に入ります。
 二拝二拍手一拝と言われるように、まず二度礼をし、二度拍手を打ち、さらに一度礼をするわけですが、私の場合は最後の礼の前に祈りの言葉を入れます。
・祈りの言葉
 ここは上掲の高坂和導氏の著書(未確認ですが)にならって祈りをささげています。
 まず、その地を統(す)べる地の神、これを光の竜神様として崇(あが)め、光の竜神様にその地の祓い清めを願うとともに、神様のご開運と隆盛になることを祈ります。
 前述したように、神社はエネルギースポットに建てられていることが非常に多いです。
 その地を統べる超意識を、光の竜神様と呼んでいると考えています。
 次に祓戸(はらえど)の四神にその地の祓い清めを願うとともに、神様方のご開運と隆盛になることを祈ります。
 神道の大祓詞(おおはらいのことば)にも出て来る祓戸の四神。
 瀬織津比売(せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す
 速開都比売(はやあきつひめ) -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む
 気吹戸主(いぶきどぬし) -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ
 速佐須良比売(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う
 (wikipedia-祓戸大神より)  
 このような役目を持つ神様たちに祓い清めを祈るわけです。
 参拝のとき、よく風が吹いたり、あるいは参拝の前に雨が降ったりしましたが、祓戸の四神のお力の顕現かと思っています。
 そしていよいよその神社のご祭神様に祈ります。
 まずはご祭神様のご開運、隆盛になることを祈り、次に光のネットワークを作るために動いていることを(心の中で)話し、これまで言った神社の名前を(できるだけ)挙げ、それらの神社とネットワークを作ってくれるように祈ります。
 そして、そのご祭神と縁があるときは、ちょっと話したり(もちろん、心の中で)もします。
 最後に一礼して離れるわけです。
 高坂氏の著書では、その地から始まり、地域、日本、地球とよくなっていくように祈ることが書かれています。
 私は、やったりやらなかったりですけど。
 個人的なお願いはこの後にします。
 自分が努力はするけれど、その足りない部分を御助力ください、といった形でお願いします。
 これは、高坂和導氏の著書にあり、非常に感銘したうちのひとつで、以後、自分も実践していることですが、個人的なお願いも別にしてもかまわないと思います。
 ただし、自分ができるだけの努力をすることが大前提です。
 そしてそれだけでは足らない部分、タイミングや巡り合わせ、出会いなどという部分を神様に頼むのです。
 つまり、
 「人事を尽くして天命を待つ」
 その天命のところを神様にお願いするのであれば、別に個人的なお願いであろうとかまわないのではないかと思います。
 個人が幸せでなければ、人の幸せは現実問題として、祈れないと思います。
 自分ありき、他人ありきではなく、自分も他人もよくなる。
 それが本来あるべき姿なのだろうと思います。
 それを実現するための個人的なお願いならば、神様もきっと聞き届けてくれるのではないでしょうか。
・摂社(せっしゃ)末社(ばっしゃ)もできる限り回る。
 神社境内に摂社末社がある場合は、できる限り回ります。
 それらの神様に祈るときは、祓い清めの祈りは省略して祈ることがほとんどです。
 本殿での祈りで、その地の祓い清めは済んでいると考えるからです。
 なので、ご祭神様への挨拶と祈りだけを行うのが通例です。
 もちろん、境外の摂社末社の場合は、祓い清めから始めますけど。
 お賽銭は、あるときは払いますが、ないときは払わないこともままあります。
 賽銭箱がしつらえてないときは、心無い連中の悪意の発露を避けるために払わないようにしています。
・境内を出るときに再度一礼。
 鳥居を出たところで、ありがとうございました、ぐらいの意味合いで再度頭を下げます。
 人の家を訪問したときも、戸口を出たところで再度挨拶すると思いますけど、それと同じことです。

肉食の忌避は、その日の夜からは一応解禁はしていました。
ですが、そのときの気分(というか気配というか・・・)により、肉食の忌避を続けることもありました。


○参拝後。

参拝を終え、家に帰宅したら、日中を選んで地元の神社に参拝に行きます。
神社参拝の報告と、ネットワーク化のお願いです。
こうやって「つなぎ」をつけていけば、ネットワークが強くなるかと思ってやっています。
全国でこういう考えの人が活動したら、日本という国も霊的に強化され、来るべき大難も比較的小さくなるのではないでしょうか。


今の日本はあまりにも霊的に堕落しています。
酸鼻な事件の報道を見ない日はないといってよく、日本の指導者たちは身勝手かつ低級に過ぎ、現状を改善しようという気概はなく、日本のあるべき姿、将来像さえ明確に描くことができないありさまです。
どういう日本であるべきなのか、政治家にとって最低限の資質であり職にある条件であるはずのビジョンすら口にすることができない政治家ばかりが目立つ状況は、危機的というほかはないでしょう。
第二次大戦の敗戦とともに、さまざまな悪しきものが入り込み、その策動の結果が今の姿になっているような気がします。
さらにその淵源は明治維新に求めることができるのですが。
第二次大戦前に出口王仁三郎をはじめ、幾多の霊能者が出現し、霊的国防論が台頭したことを考えると、さらに深く考察ができると思います。
第二次大戦にも霊的な意味がありましたが、この項では委細は控えようと思います。

今の状況を見ると、神の国日本、竹内文書にあった、神とともに生きる民としての日本人の役割は失われたかに見えます。
それを変えていくのは、究極的には神の力の発現に頼るしかないとしても、実際に行動するのは人の役目です。
神様が直接介入となると、天変地異は不可避のように思われます。
人が動いて悪しき流れを変え、人類が光の道へと進むとき、不可避のはずの大難も変わるように思います。
神社に参拝し、エネルギースポットを活性化していくことで、日本の霊的再生を図ることができるのではないかと思われます。
もちろん、他の宗教によってもそれは可能かもしれません。
しかし、神社の立地や神道、その中でも古神道のことを考えれば、一番効果的なやり方のひとつなのではないかとも思われます。
古神道がもっとも太古の神人ともにある姿に近いこと、「霊界物語」から「日月神示」に連なる終末予言がいずれも古神道の流れに下ろされていることを考えれば、古神道のポジションは明らかになると思います。
古神道を中心に、さまざまな宗教や霊能者、霊覚者の言から本来、人のあるべき姿を希求し、人の世の立て直しを図るにはどうすればよいか。
その方法論のひとつが日本のエネルギースポットである神社のネットワーク化を図り、日本の霊的再生を図ることではないかと思います。
日本が復活すれば、世界が変わる。
日本が真の姿を表せば、闇の力は衰え、アセンションとともに消えていく。
少なくとも私はそう考えています。
そして、卑小なレベルでは自分の幸せ、高いレベルでは日本の再生から始まる世界の再生を考えて、各地の神社を参拝していました。


(19.11.18)
(最終更新 20.01.02)



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